アルバム「LIFE」の中の一曲。作詞山内総一郎、作曲金澤ダイスケ。「LIFEツアー」でも、「はじまりましツァー」でも、なぜかまだこの曲だけはやっていない(2015年5月現在)。ピアノのリフが印象的な一曲。金澤ダイスケいわく「ヒップホップ」だそうです。
ロボットが感情をもってゆくのが面白い、という感想をどこかで見たけれども、山内総一郎は「孤独な自分をロボットに例えつつ、人というのは誰かと交わって、影響を受けながら変わっていく部分もあるし、変わらない部分もある。その両方を肯定している曲ですね」と述べている(アルバム「LIFE」ライナーノーツ〔山内〕)。つまり、これはロボットが感情を持つ歌ではなく、自分はロボットのようだと感じている人間の歌なのである。
個人的には非常に共感できる部分がある。人は強いプレッシャーを受けたり、心の中に自分でも認めがたい感情を抱えるとき、「乖離」といって、感覚、知覚、記憶、思考、意図といった個々の体験の要素を統合できなくなることがある。そんなに珍しい現象ではない。
重いウエスト チタン製
バランスとってる それが僕なんです
ベッドから起きて探しても
本来を映す姿見がないんです
あーこれで人間と呼ばれるかな
自分の体が自分のものでないような感覚なのである。
歩き始めた日々の中
バス停のルールにいまいち疎いんです
イヤフォンの中で流れてくる
「ありのままの君」まだわからないんです
あーおかしい、なぜか胸が痛む
いらないパーツは返品したいのだ
いろいろありすぎて、もはや自分がわからない。あれ、俺ってどんなだっけ?
胸が痛いけどその理由もわからないし、こんな胸の痛みはいらない。
しかし、ここでいったん前向きに転じるのが山内総一郎という人である。うじうじと悩みながらも、健全な力強さというものが顔を出すのである。
触れ合った時はドキドキするね
いつもガラクタだけどやれるだけ
オチちゃった時は大きく深呼吸
沈む遺跡見に行こう
二人で
欠陥(痛み)を抱えた「ガラクタ」なりにやれるだけやって、どうしてもつらいときは古い昔の記憶に潜って少し休むのである。
ここでいきなり「二人で」と出てくる。相手は誰なのか。触れ合った誰かなのか。その相手はどこにいるのか。なぜその人とは遺跡を見に行くことができるのか。
加藤さんいわく、「最後のBメロは後から付け足したんですけど、それによって曲がぐっと引き締まって、僕のお気に入りの1曲になりました」(アルバム「LIFE」ライナーノーツ〔加藤〕)。
たとえば胸のスイッチをOFFにしたら、ショートしちゃったら
焼き付くこの記憶全て 消えはしない? 消えはしないの?
ロボットの「僕」は胸のスイッチをOFFにしたいのだろうか。そうすれば胸の痛みはなくなると思っているのだろうか。その痛みは焼き付く記憶が原因だと思っているのか。
オチちゃったときに一緒に沈む遺跡を見に行く相手が、結局、焼け付く記憶が痛みをもたらすその人でもあるのではないのか。
これが現在の山内総一郎の心象風景の一つだとするならば、なかなか壮絶なものがある。でも、見てみたいとも思うのだ。
沈む遺跡を見ている二人を。