彼方の音楽

毎日の中でこころ動かされたことを、つらつらと綴っていきます。

「作品」の評価と「作者」の人格 ~アラーキー事件で考えてみました

写真家である荒木経惟(通称「アラーキー」)のモデルを15年間にわたり務めていたKaoRiさんが、インターネットで、アラーキーとの関係について告白したことが話題になっています。アラーキーの写真は昔からとても好きだったので、KaoRiさんの告白には、いろいろ考えさせられました。ショックを受ける自分をナイーブだとも思いますが、せっかくなので考えたことをまとめてみます。

 

 

KaoRiさんの告白

note.mu

 

パワハラやセクハラといった言葉でくくると、大事なディテールが零れ落ちてしまうような内容がそこにあるので、興味のある方は一読することをお勧めします。

時間がないよ、という方のためにあえて要約すると、告白された内容は以下になります。

 

  • アラーキーとの関係は、写真家とモデルで、恋人関係ではなかった。家に行ったこともない。
  • スタジオではダンスやヌードや着物姿で、一緒にいるときはご飯を食べたり寝たり風呂に入ったり絵をかいたり、どんな時でも写真を撮られていた。
  • 写真をどのように使われるかは一切知らされず、初めてヌードになったときに契約書はないかと確認したが、「日本ではそれが普通」と言われ、そんなものかと思ってしまった。アラーキーほどの人なのだから悪いことはされないのだろうと思った。
  • 時間的な拘束は増え、自分の名前をタイトルにした写真集やDVDも出版されたが、報酬はそれほどなかった。撮影が終わった後に手渡しされるお小遣いのような報酬以外には、どれだけ時間を拘束されても、自分の名前で写真集が出版されても何もなく、自分の生活費は別途稼がなければならなかった。でも、アーティストがお金の話をするのははずかしい、それを乗り越えてこそいい表現ができる、と言われて、自分なりに、貢献しているつもりで飲み込むしかなかった。
  • 過激なパフォーマンスをするように追い込まれ、周囲からの嫌がらせやストーカー行為で、心身ともに疲労した。アラーキーに改善を求めても「知らない」「忘れた」「俺は関係ない」「編集者が勝手に書いた」「携帯もパソコンもないから知らない。気にするのが悪い」と逃げられた。
  • 昔、奥様にして許されていたことを、責任を取るつもりもない私に押しつけられているようにも感じた。
  • はっきりと環境の改善を求める手紙を出したところ、「有限会社アラーキーに対する名誉毀損と営業妨害に当たる行動を今後一切いたしません」という文書にサインを強要された。2016年の6月に「ミューズ役」を突然クビにされ、有限会社アラーキー代表の女性から長文の手紙が届き、その手紙には「これからも、最高のミューズでいてください」と締めくくられていた。完全に自尊心を失い、自殺も考えた。
  • 自分の写真の公表を、一切やめてほしいとはいわないけれど、するならルールを決めたい、いくらなんでもやりすぎだったことを認めて欲しいと弁護士を通じて申し入れたところ「あなたが撮って欲しいと言って事務所に尋ねて来たからモデルにしただけ。「私写真」は広く批評家にも認められている独自の表現方法であり、その関係はビジネスではないから、ルールも同意もそもそもない。全部自分が決めること。そうでなければ、自分の芸術は成り立たない。だからやり過ぎたことがあるはずがない。今後の写真の取り扱いなどについても話し合う必要はない。」との回答があった。

 

まとめているだけで苦しくなるような内容ですが、KaoRiさんは、「「私写真」の定義を勝手に解釈して、うまく騙されて利用されてしまったのは、私。貢献していると勘違いして勝手にがんばってしまったのも、私。」「だから、この失敗談が、これから変わろうとする人や未来、同じような経験で沈黙している人たちの、少しでも役に立てたら。と思っています。」「芸術という仮面をつけて、影でこんな思いをするモデルがこれ以上、出て欲しくありません。」と語っています。

また、ブログのラストには、KaoRiさんが青空の下、山を背景にグリーンのワンピースを着て立っている写真が載っていますが、とても健康的で爽やかそうで、「あ、今、KaoRiさんはこんな感じなんだ」と思わせてくれます。

 

論点てんこもり

KaoRiさんの告白は、いろいろな問題を投げかけました。ざっと思いつくままにあげても、こんな感じです。

  1. 「私写真」というジャンルにおけるモデルとカメラマンの関係
  2. ハダカ業界におけるモデルとカメラマンの関係
  3. 絵とか映像とか写真とか小説とか、いわゆる芸術界隈におけるモデルと作者の関係
  4. エンターテイメント又はアート界隈における契約書の重要性
  5. やりがい搾取
  6. 「作品」の創造プロセスにおける社会規範違反と、当該「作品」の評価
  7. 女性の社会的地位の問題

 

ツイッターでは、いろいろな人の意見を見ました。

 

2、3、4に関しては以下のブログが、なるほどなって感じでした。

tablo.jp

 

1、6、7については、写真史研究家である戸田昌子さんのツイッターでのつぶやきも興味深く読みました。

 

twinavi.jp

 

私は何にショックを受けたのか

さて、今回のKaoRiさんの告白に私はショックを受けたのですが、「アラーキーの写真みてりゃ、それぐらいのことは予想がつくでしょ。いまさら何言ってるの」という意見もチラホラ見かけるため、まずここを整理したいと思います。

 

まず単純に、KaoRiさんの体験した内容は辛かっただろうなと想像したので、影で泣いてる人がいる作品を自分は好んでいたのか・・・・というのがまあ、ショックです。率直に言って、申し訳なかった、と思ってしまいました。

 

そりゃ、ナイーブですよ。

作品みて感動してた私は悪くないですよ。たぶん。知らなかったし。

でもさ、なんか、「ごめん、KaoRiさん。そんなふうだったとは知らなかったから」というのが素直な気持ちです。

 

次に、アラーキーのKaoRiさんに対する態度は、とめどない甘えに見えます。「甘え」っていうと、軽いかな。相手を尊重せず、軽んじているがゆえに、相手の痛み(自分の加害)に無自覚になり、自分の楽なほうへ、楽なほうへ状況を動かしていき、「芸術のためだ、何が悪い」と開き直って憚らない態度、とでもいいましょうかね。

こういう人間、嫌いなんで、アラーキーのそういった性質を見抜けなかった己の不明を恥じました。

見る目ないね、私・・・・。

 

三つ目。それでも、私は、アラーキーの、陽子さんに関連する写真、町の写真、男の顔シリーズは好きなまんまです。濡れたような写真のテイストも好きです。

 

陽子 (荒木経惟写真全集)

 

あんなゲスい男が撮った写真だというのに、そのゲスいところが写真のよい表現を生み出しているとなるとこりゃどうしたらいいの・・・・ってところです。

上記の問題でいったら、6「「作品」の創造プロセスにおける社会規範違反と、当該「作品」の評価」に関連するところですね。

 

「作品」と「作者」は別ものなのではないか、「作者」がどんな悪行をしていようとも、「作品」が燦然と輝いているのであれば(もしくは深淵を湛えているのであれば)、それはそれとして評価するべきなのではないか。

とは、よく耳にする意見でもあります。

 

「作品」と「作者」は切り離して考えられるか

この答えの出ない問題をぐるぐる考えているときに、いろいろネットで記事を読んでいたら、偶然にも、ミュージシャンの小山田圭吾が、小中高と、自分や友人が、障碍者のクラスメートに酷いいじめをしていたことを、クイックジャパンで薄笑いで語っていた、というまとめ記事にぶち当たってしまいました。

 

 

これはショック。

かなりショック。

 

小山田圭吾のファンの間では結構有名な話のようですが、私はそこまで詳しくなかったので、知りませんでした。フリッパーズギターは結構聴いていたのだけれど。

不倫してる人が純愛の歌を歌う、くらいなら私も許容できるのですが、このいじめの話はディテールもやけに細かくて、小山田圭吾がいまだにへらへら笑ってる感じが気持ち悪くて、昔からいじめの話が苦手な私は、社会倫理的にというより、生理的に、無理でした。

 

で、結局、このテーマについては、「どのくらいその作品が好きか」と、「作者がどれくらい許せないことをしたか」の相関関係で決まるのかな、という単純なところに落ち着きました。

 

アラーキーの写真の場合は、「どのくらいその作品が好きか」がギリギリ勝ってる。

小山田圭吾の音楽の場合は、「作者がどれくらい許せないことをしたか」がぶっちぎりで勝ってる。

私の価値観だとそんな感じです。

で、これはもう完全に個人の趣味嗜好価値観に左右されるので、一般化できないのではないかな、と思います。

 

KaoRiさんは、告白で、以下のようにも語っています。

 

曖昧にされたまま、勘違いされ続けるのは辛いので、とってもとっても怖いけれど、自分の言葉で綴ろうと思いました。でも、写真ファンの皆さんの夢を壊してしまったら、ごめんなさい。信じる信じないに関わらず、me tooも関係なく、彼の作品鑑賞の一つの視点にしてもらえたらそれでもう十分なのです。それがそこでの自分の役割だったのだと納得することができます。ちょっと長い話になります。世界的なアーティストたちが「You're my hero !」と言って日々会いにくる芸術家と一緒にいることだけが日常だった頃の話です。

 

 

「一つの視点」には、確かになりました。

アラーキーの写真を、これまでのようなおおらかさで鑑賞することも許容することもできないし、カメラマンと被写体の淫靡な共犯関係が虚構のものだったことは、作品を見る上で、これからも忘れられないと思います。